いつもそばにあった『書くこと』という行為に、あらためて向き合ってみたいと思った。そんなとき、ご縁がつながり、仲谷史子さんの『心に響く文章講座』を受講することになった。
書くという行為には、必ず「ひとりの時間」が伴う。ふと浮かんだ言葉を取り出して、内面との距離を測りながら、立ち止まり、歩き、また振り返る。気づけば、思いもよらない方向へと進んでいることがある。そうして繰り返すうちに、見えていなかった世界が少しずつ立ち上がってくることがある。
彼女から学んでいるのは、単なる書き方の技術だけではないように思う。もちろん、技術的なことは丁寧に教わる。けれど、それ以上に、彼女の講座には、自分がどのように世界を見て、どのように世界と関わっているのかを映し出す時間があるのだ。 学校では教わらなかった、文章の行間に潜む何かに触れる世界の存在を知り、久しぶりに胸が高なった。窓の外に目をやると、さっきまで青々としていた空は茜色に染まっていた。
彼女は、どのような世界を見ながら『書くこと』を伝え続けているのだろう。そして、彼女の『書くこと』の原点とは、いったいどんなものなのだろうか。彼女が捉える書くことの本質に触れたい。
(取材/はぎのあきこ)
「北の国から」がくれた、人生を変えるきっかけ
送っていただいた今回の取材企画書を読みました。はぎのさん、文章がうまい。「生きるとはなんだ」という文章を読んで、学生の頃を思い出しました。めちゃくちゃ懐かしくなりました。最近は、あんな熱量のある文章を見かけなくなったからです。
ー光栄です。でも、自分ではそんなに書けているという感覚がありません。
私もそうでした。自分の文章にあまり興味がありませんでした。文学学校も、人に薦められて行ったんです。きっかけは、2002年の時です。インターネット上で「北の国から」の続きのストーリーを書くというサイトに参加したのが始まりです。
ー北海道を舞台にした田中邦衛さんが主演のドラマシリーズですね。
はい。当時、「北の国から」が大好きで、サイトを探したら放送局が運営する特設サイトがありました。自由に好きなシーンや感想を書き込める場所です。ただ、期間限定で、最終回の翌日には閉じるというものだったんです。 その最終日に、友達もたくさんできたんで、「これまでありがとう」と挨拶をしたくて、ログインしようとしたんですけど、なんとパソコンが壊れていて…。
「うそぉー!」と愕然として。でも、諦めきれず「やっぱり入りたい!」とバーンってキーボードを叩いたら、繋がったんです。
ー漫画みたいな話。
そうなんですよ。そうしたら、掲示板に「続きのストーリー」というトピックが立っていて、「ここ(スペシャル版サイト)が終わったら、続きのサイトを作るので来てください」って書き込みがあったんですね。最終日に入れたから、その続きのサイトの存在を知ることができたんです。
ー運命のようです。
本当にそう思います。その日、深夜になって再びフジ公式サイトのリンクを押すと、まだ開いていて、「おーい、みんな」と呼びかけてみました。でも誰からも返答がなくて。すると、仲良くしていた男性が「誰もいないですね」と話しかけてきて、「じゃあ、ここで告白させてください」って言うんです。
そして、「実は僕、倉本なんです」って。その方、倉本聰さんを名乗ったんですよ。
ーえぇー!原作者の倉本聰さんご本人?? びっくりしました!
面白い人やったし、「なんとなく、そう思ってました。どうもありがとうございました」と返しつつ、心臓はバクバクして。寝室に駆け込んで夫を叩き起こして、当時1歳の乳飲み子の次男にも「なあなあ、聞いて!」と大興奮して喋りました。
その後にサイトに戻ると、そのやりとりを見ていた皆がコメントをし始めたんです。そうしたら、倉本さんが「嘘です。すみません」って(笑)。
その出来事が、私の何かを刺激して「書こう」と思うきっかけになったんです。
ー書こうと思うきっかけに、ですか?
はい。新しいサイトで、「北の国から」の続編を勝手に想像して書き始めました。 五郎と令子の初夜の話なんかも。布団の端っこで五郎が「オイラと結婚してくれてありがとう」って言ったら、令子が「どうして謝るのよ」って言って、怒り出すっていう。
それで、令子が背中を向けたら、五郎が「すまん」って言って、頭を垂れたら、(純の声で)ムスコも頭を垂れた…というストーリー。ちょっとエッチな(笑)
ーその作品、残ってないですか?
残ってないんです。すごいウケて、「田辺聖子みたいや」と言われ、調子に乗って、2年くらいそのサイトで遊びました。 続きのストーリーをむちゃくちゃ書いてました。今から思うと、一番書いてた時期です。2年ぐらい経つと、書くことが癖になっていました。1日に原稿用紙12枚くらい、毎日書いていたんです。
自分の作品には興味なし。書き捨てみたいな感覚だった
ー私の勝手なイメージでは、先生は学生の頃から書くことがすごく好きで、得意やったんやと思ってました。
はぎのさんが「自分が書けると、そんなに思えへん」と言ってはったのから、思い出したんです。私も同じで、別に書くことに興味があったわけじゃなかったんです。
ーそうだったんですか。
学生時代もそうです。でも、何かしら書いてはいたんです。論文も書かなあかんから、書いていました。それに、日常的に「自分の友達」として日記を書いていた記憶はあるんです。 学生時代で特に思い出すのは、高校の時に夏目漱石の『こころ』を読んで書いた読書感想文です。
高校時代はかなりサボっていて、今の言葉で言えば不登校のような状態だったんですね。でも『こころ』は私の心を揺さぶり、本気で書いたのを覚えています。
ある日の授業中、国語の先生に呼ばれて立つよう言われ、てっきり怒られるのかと思ったら、先生が飛び跳ねるように「あなたの感想文、私感動しちゃって! みんなに読んでもらいたくて」と言ってくれました。 嬉しかったけど、当時の私は少し擦れていて、感想文が戻ってきてもすぐにゴミ箱行きでした。
大学の時にも、似たようなことがありました。一般教養で青年心理学の授業があって、課題で自叙伝のような文章を書いたんです。高校時代のブラスバンド仲間との出来事を書いたんですが、先生から「あなたの作品が素晴らしかったので大学に保管させてください」と言われました。
でも、それもやっぱり原本はゴミ箱行きです。 何を書いたかも、もう覚えていないです。
ー興味がなかったんでしょうか?自分の書いたものに。
自分の作品に興味がなかったんですね。今も似たところがあって、書いてもあまり残さず、なんか「書き捨て」みたいな感覚なんです。
ー分からんでもないです。その時の自分から出たもの、という感覚。
そうです。この感覚、分かってくれてはる。書く人って、そういうものなんじゃないかと。多くの作家さんは「作品を書きあげた時点で、それはもう人のもの」と言いはるし、もちろん作家さんによって意見は様々ですが、私はそれを聞いてすごく納得しました。
無意識に育てていた書く才能
ー文学部に入ろうと思ったのはなぜだったのでしょうか。
国語はあまり好きじゃなかったんです。でも、英語は得意だったから、英語の先生になろうと思って大学の文学部に入りました。 私の時代は、大学を出ても特に女性の就職先がほとんどなくて、コネで入るしかなかったんです。先生になるか、コンピューター関係の会社に行くか。
仕事の入り口はその2択くらいで、「女の人は結婚するもの」という風潮がまだ強く残っていました。 文学部に入って、2年生から専門を決める時、英文学の申し込み列に並んでいたんです。そしたら、国文学の列に、私が1年の時から仲良くしていた友達がいて、「あんた、なんでそっち並んでるん?」と声をかけてきて。
「英文習ったって、英語喋られへんで。ずっとイギリス文学読んで、何が面白いんや!夏目漱石とか読もう!」って言うんですよ。そのまま国文学の列に腕を引っ張っていかれ、結局、国文学を選びました。 学生時代の友達で、今でも唯一残っている友達です。
ー本を読むのはお好きだったんですか?
そうですね。あの頃はみんな結構、本を読んでいました。電車に乗りながらとか。スマホがないし。 名前が史子でしょう。歴史の“史”の字で、父が願いを込めて名付けたらしいです。父は小説漬けで、布団の中で懐中電灯をつけて本を読むようなタイプだったらしく、「自分の子どもには文章を書ける人になってほしい」と願って、史子と名付けたと言ってました。
でも、初めはその名前がすごく嫌だったんです。なんで親の願いを背負わなあかんのか、と。そういう反抗心が、子どもの頃にちょっとあったかな。親からは小学校の時から「小公子とか小公女を読みなさい」と言われて、命令されると嫌になってしまい、しばらく読まなかったんです。
ー抵抗があった。
ありました。父は、他のことでは何も押し付けなかったのに、文章だけは押し付けたんです。
ー学生時代に、小説のようなものを書くことはなかったのでしょうか?
思い返せば、日常的に日記は書いていました。毎日の出来事や、恋をした時のこととか。高校で好きな人ができたら、「今日はちょっと声をかけたら振り返ってくれた」とか、そんな日記です。 中学1年からずっと、何冊も書いていました。
そうやって内側を表現することで、自分の心を整理していたんですね。それが《書くこと》だとは、あまり意識していなかったです。 日常の一部のような感覚でした。あの頃は日記が流行っていましたし。小学校の頃、友達と「交換日記」もしていました。私にとって、日記が書くことの原点かもしれません。
ー《書くこと》は、日記から始まった、と。
そうですね。それから、高高3年生の頃、先ほどもお話した、夏目漱石の『こころ』の感想文を書いた時、夜中まで、泣きながら書いたのを覚えています。今でもその本は手元にありますが、書き込みだらけです。
それを読んで、当時の私は「人間って、なんでこんなに勝ちたいんやろう」「K(登場人物)は、どうして自殺したんやろう」と考えたりしました。その繊細な心で感想文を書いたんだと思います。「人間って一体何なんだろう」と。
ーまさに、人間の心を読んだんですね。すごい感性。
初めて小説で泣きました。その頃から、道筋のようなものができていたのかもしれない。なんか縁があったんでしょうね。
ーそういう作品とそこで出会った。
そうなんです。それを先生が喜んでくれはって、成績はひどかったのに、その時の国語だけは、最高評価の10がつきました。それがやっぱり心に残ってたんでしょうね。
そんな高校時代のこともすっかり忘れて、「北の国から」の続編を書くのも遊びのつもりで、書くことを意識していたわけじゃなかった。でも、「北の国から」を教えてくれた友人に続編を読んでもらったら、「これめっちゃおもろいから、知り合いに送りたい」と言われ、東京の元編集長に送ったんです。
後日、その方から手紙が来て、「文壇デビューする可能性があるので、すぐ文学学校に行ってください」と。その方は、周りの編集者にも見てもらったそうです。「大阪にこんなおばちゃんおんねんな」という話になって、「確かなので」と書かれていました。 そして、「あなたは小説の書き方をまだ知らないようなので、一から文学学校で学んでください」とも書いてありました。
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