コミュ力とかかわり方の美意識

コミュニケーションの力というのは、いかに話せるか、意見を言えるか、提案できるかでは決してなく、《自分は今何を感じ、思っているか》を伝えて、相手からのその発信に対して《そうなんだな》と相手の世界を否定しないで一旦受け取れる力だと思っています。

内外ともに一方通行ではないものです。

もちろん、相手の発信を《攻撃だ》と自分が捉えたなら、そこに向かわなくても受け取らなくてもいいのですが。

例えば、何か相手から質問があって「分からない」「とくに意見はない」のであれば、それをなんらかの形で相手に伝えることからはじまる。

人間なので、やりとりをするには、何かを始めないと始まらないですよね。

でも、相手とのかかわりを望むのにもかかわらず、その《わからない》《何も考えてない》自分を、《出してはいけない》として引っ込めてしまったり《何とかしなきゃ》と取り繕ってしまったりするのは、これまでの家庭や教育、社会全体のなかで必死に自分を守るために身につけてきたことなんだろうと思います。

すべては、その人の状況と環境、タイミング次第だし、《わからない》《何も考えてない》を言っても本当にオッケーな場でないと無理な人はいるのです。

見えないものを自分と一緒の物差しで見ては、その人の世界の観方には近づけません。

わたしも思っていました。

分からないことや考えていないことを言えば、もっと考えろ、自分で考えろと言われるだけだと。

小学校時代、全体責任とかいうのが主流だったのか、何か問題があると先生が犯人探しをしていました。

先生が帰りの会のとき、給食で「パンにつけるマーガリンをゴミ箱に捨てずに、給食机に置いたやつがいる、だれだ?」とピリピリしながらみんなを問い詰めました。
帰り際に長時間。「先生は知っています」とか言って脅しまでつかって。

「誰か知りませんか?」→「知りません。」
「悪いと思うなら申し出なさい!」→しーん
これでは、許されないんですよね。解決しないから。

そして、「どう思う?」→「悪いと思います。」以外は通じないことを子どもは分かっています。ほとんどの子は、どう答えたら良いかを察しています。その中で、察することができないと問題視されます。

その時に、現場で叱られるのはいいのですが、ねちねちと長い時間拘束をして、見えない犯人探しを全員の前でやり、心理的負荷をかけることのやばさを知らないといけないですよね。

子どもの体験は身体にも記憶として残るのではないでしょうか。

今はもう、ここまではしないでしょう。でも、まだ全体責任をとらせるのはあるようです。

正しいことをさせるために、一人がやった《悪いこと》を締め上げて、全員が二度と同じようなことをさせないようにする目的なんでしょう。

でも、それをして誰が幸せになるんでしょうか。


以前、ある講義を受けました。教育について
《子どもは褒めましょう!そして、褒めるばかりでなく叱りましょう!》って講師がおっしゃったのに違和感を覚えずにはいられませんでした。

「叱る必要があると思う人は?」と問われましたが、何とも言えない違和感を感じ、わたしは手をあげませんでした。

そうしたら、手を挙げなかったのはわたしだけだったので何故か理由を聞かれました。

理由を答えても、あまり意味はなく「先生の考えは何となく分かりました」と言っても、
叱ることがなぜ必要かの説明が続きました笑。それでも、首をたてには振りませんでした。

《子ども》とすべての対象を抽象化してくくると、おかしくなります。言わんとすることはわかるんです。
でも、目の前にいない子どもを叱る方が良いか、叱らない方が良いかなんて、全く無意味な質問と方法論に思えたんです。

全部褒めなければならない、はおかしい。
目の前の子どもが危険なことをしていたら、
止める。目の前の子どもとのやりとりで、自分が感じたこと、考えたことを伝えるって、それだけじゃないの?と。

話を戻すと、みんな不平等が平等にあるなかで、まったく違う人生を、何かを抱えながら生きてるわけです。その抱えてるものは、その人自身のものなので、すべてのそれに付き合う必要はないですし、すべてを分かろうとするのは検討ちがいです。

でも、だからと言って、無理やり何とかしてやろう!としたり、「自分の責任でしょ。」と分からないことでも、すべて自力で何らかの選択をさせようとしたりするのは違うと思うんです。

そして、それに人は自分の想像以上に
痛みを感じています。

何が言いたいかと言うと、人は他者のことなんてわからないです。わかったつもりになっている人はたくさんいるけれど。
(わたしも気をつけないと、《つもり》を
発動させがちになります。)

だからこそ、自分の尊厳を守っていくためにも、他者に《分からない》や《考えていない》ってことでも、伝えることはとても大切だと思ってます。

あなたが、相手とのかかわりを放棄するのではなく、つなごうと発したことなんだから。そこから、《そうだったのか》《じゃあ、どんなことが好きなのかな?》って相互のやりとりが始まる可能性がひらけます。
ただ、相手がどう反応するかは相手の領域のものなので委ねるしかないですよね。

でも、何度も言っているように、環境や状況によるんです。「そんなこと言ったって、言えないもんは言えないんだよ!怖いんだから!」っていうのも、もちろん《あり》だってことです。

他者は、あなたのことは分かりませんから、うるせー!と言いながら、他力も借りて、あなたのペースで、ひらきたい時にひらいていけばいいと思います。


わたしは、自分のために黙っているのをやめただけです。

人とのかかわりをたくさん体験して、自分がとことんまで落ちた時に、できない自分に腹を立てては自分を責め、今度は他者を責め、やりつくした先に深い深い悲しみがありました。

できない自分どころか、何もなくなったんです。でも、深い孤独の中に静寂さがあり、そこに不思議と安寧があることにも気づきました。

淡々と日々過ごす中で、「ああ、今日はコーヒーが美味しかったな」とか、「家族がいて良かったな」とか。わたし的には《何も無くなった》と思っていたけれど、《あったんだ》と当たり前のことに気づき始めたんですね。

そこから、自分の尊厳を取り戻していきました。

相手に合わせるのではなく、わたしの思いを伝え、相手に良い反応を求めるのもやめました。上手くできない時は多々ありますが。もちろん、共感してくれるのはめちゃくちゃ嬉しいです!

ただ、《みんなに良く》はできないけれど、自分の出来うる限りの誠意と思いやりをもって、《人とかかわる上での自分の美意識》はこれからも人とかかわりながら高めていきたいと思っています。




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