今年度から、神戸にある看護専門学校の《人間関係論》の授業を担当しています。
この授業、1コマ90分× 15回を3ヶ月でやるんです。
わたしのやりたいことがドンピシャだったので、他の経験のある授業を断り、《人間関係論》を「できます!」って何の根拠もないのに言って、やっているわけです。ゼロ→イチなんで、もう日々必死に授業を組み立てて試行錯誤しています。
わたしは人間関係のスペシャリストではない。
たくさんの痛い経験を重ねてきた。
だからこそ、考えてきた。
一緒に考えていくことができる。
そう思っています。
それを毎回全力でやってるんですが、その《やる気》と《楽しい!》を上げてくれているのが生徒たちなんです。
『先生、今日もありがとうございました。』
『先生、楽しかった!』
『先生、髪の毛切ったの?かわいい。いい感じ!』
『先生、癒しだわあ。』
まだ2回終わったところです。皆さん、この授業受けなくても十分すてきな人間関係つくっていけるんじゃ?と思っています。
もうすでに、わたし喜ばせてやる気にさせて、「もっと良いものを創ってもっていこう!」「生徒たちがこれから役にたつもの、
授業受けて良かったー!って思えるものにしよう」ってわたしを動かしてるんですよ。
すごい人たちです。
人間関係ってこういうことだと思うんですよ。
《怒られたら怖いから》
《失敗したら怖いから》
って恐れで動かすものではないはずです。怖がらせて動かすことは簡単です。でも、だれも幸せにはなれない。
緊張感漂う空気のなかで、必死に自分の居場所を確保しようとエネルギーを注いでたりします。それも、一生懸命生きている証
なんですけど、もっと根本にある喜んでもらえる幸せを感じて動けるはずじゃないかなって。
生徒たちはわたしを動かそうとは思っていません。でも、わたしは生徒が可愛くてたまらい。もう、虜です。
結局は、どちらもお互いに影響を与えあっているので自分の受け取り次第なんですが、コミュニケーション力が高いと、やっぱり人とつながりやすくて、幸せを感じやすい。
リーダーになる人ってこれが必要だと思うんです。いかに、一緒にいる(はたらく)人たちを喜ばせるか。その先のお客様は、まず、はたらく人たちあっての喜ばせたい人たちです。
人は、なんだかんだって感謝されたいんです。役に立ちたいんです。
だから、人をやる気にさせるには自分が自ら楽しんで「なんか、いいなぁ」って思ってもらうことが絶対に必要で。
矛盾しているけれど、
「やる気にさせよう」
「動かそう」
っていう目的でしてしまうと全てその意図が伝わって拒否反応になるから、要らない。
その人自身に喜んでもらいたい気持ちだと思うんです。
それでも、恐怖は簡単に人を動かせるから使われるんだろうと思います。
だから、わたしの描くリーダーシップ像は、自分が動きながら一緒に共同創造できる、大切な人たちに敬意と信頼をもってお任せしたり一緒に考えたりできること。
もちろん、そこに全体からみた判断や決定、責任は必ず伴います。任せるのも、自分の判断のもとに任せるわけなので。
この《任せる》って、丸投げとは違うし、条件付きの《任せる》でもないんですよね。
結果がどうなろうと、自分が責任をとる《任せる》です。
相手の状態、状況、能力とか全体に触れたうえで、相手にとってどれくらいなら、それが喜びになり得るのかを判断する必要があります。
せっかく任せるまでの人なのにキャパを大幅に超えても、キャパに全然達しない程度でも、その人が《よっしゃー!》という感覚にはなりません。
自分ができ得る限り考えること、それが相手への誠意かなと思います。授業も生徒たちがそうやって教えてくれた学びをいかして、基本的にわたしが創っていきますが、実践が多いから
「先生、これやってみても実感ない」
って3分の1の生徒が言えば、自分の未熟さを自覚して
「なるほど。じゃあどうすれば、あと半数の生徒が実感もてるかな」
と試行錯誤します。そこに、生徒の意見も加わることで、
「じゃあ、なんか考えてみよう!」と新しいものが創り出されます。
共同創造にはお互いのやりとりが、めっちゃ大事で。
そして、その過程そのものが、人間関係を学ぶプロセスになっていると思っています。
でも、やっぱりなんだかんだ言っても、自分の未熟さをちゃんと認めて、相手が助けてくれている事実に感謝することだけかなぁとも思います。実際に、そうだから。
たくさん学ばせてもらって感謝しかないです。
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