【第1回/遠藤エル】自分らしく生きるためのメソッド開発者が自身の半生で語る“自分を愛する”とは?

ある日、彼と都内で待ち合わせをした。オンラインで濃い話を重ねてきたものの、対面で会うのは初めてという日。地下通路で迷い待ち合わせに遅れてしまったわたしは、緊張していた。

でも、そんな緊張を吹き飛ばしてしまう程、彼の放つ柔らかな雰囲気とオンラインの印象そのままの真っ直ぐな佇まいに安堵し、いつもの穏やかでいて熱い空気感を味わえたことが印象的だった。


限りなく自分を解き放っている彼の言葉や振る舞いに、「自分らしく生きるとは、こういうことか」と見えない何かを受け取り、一緒にいるだけで楽になったり、安心を感じたりする人は大勢いるだろう。

そんな彼は、自身のSNSで「自分を愛する/自分の味方につくこと」の大切さを発信している。


彼の佇まいは、外見の格好良さだけではなく、己の弱さを隠さず真っ直ぐに自分を生きる強さと優しさを感じる。今回は、その熱さと魅力に迫り、彼の生きる姿を感じてみたい。

(取材/はぎのあきこ)



自分を生きる始まりは、自分を守るためだった


―エルさんが「いつでも自分の味方につく」という意識を大切にされるようになった経緯をお聴きしたいのですが、ご自身でそう思うようになったきっかけやエピソードを聞かせてください。


きっかけがあるとすれば、幼少期の家庭環境が影響していると思っています。まず、母が自分で言っていたことなんですけど、自分が幼児期の頃に精神的ストレスから微妙に育児放棄になっていたそうです。あとは、祖母と母の関係があまり良くないとか、父が仕事人間でほとんど家で合わないとか、そんな家庭環境の中で育ちました。


イライラしている大人がいつもいる家は、居心地が悪かったんです。安心安全があまりなかった。そうすると、いつも何か不安を抱えてビクビクして、いつもふつふつとした孤独を感じている。特に小さい頃って、それが僕にとっての世界のすべてだから、それを受け入れざるを得ない。だから、その中で戦っていたんでしょうね。


自分を落ち着かせて守るために、自分の味方にならなきゃいけない。そうじゃないと、苦しいじゃないですか。拠り所がないわけだから。僕の「自分の味方につく」って、おそらくこんな風に自分を守るために始まったんじゃないかなと思いますね。


―自分の身を守るために始まった意識だったんですね。


それに、家庭関係が悪かったって言っても、親に暴力を振るわれていたとか、そうではない。何もされてないし、いつものように温かい食事は用意されて、服も学校もちゃんと行かせてもらって、すべて整っている。それなのに、「ただただギスギスした空気の悪い、この感じは何なんだ!」みたいな。そうすると、誰のことも責めることもできないし、自分で抱えるしかなかったんじゃないかな。


高校生の時「ホテル家族」というタイトルの論文を書いたんです。その論文の内容は、《家族でありながら、みんながホテルの別々の部屋に住んでいるていうのが僕の家だ》、みたいな話を書いたんです。大人になった今なら、「ホテル家族」の中にいたとしても、気になりませんよ。だけど、やっぱり幼稚園ぐらいの幼い時に「ホテル家族」は酷で恐怖ですよ。


―自覚して自分の味方につくようになったのは、いつからですか?


やっぱり社会に出てからだと思いますね。僕にとって一番大きかったのは、ミュージシャン活動。バンドを結成して、CDデビューして、それでツアーを回って。僕がリーダーとして自分の旗を立てて、自分を奮い立たせなきゃステージに立てない!と冒険を始めた時からです。

そこで「俺はできる!」みたいに、本当の意味での自分の味方につく、自分の応援するみたいな意識が芽生えた。この頃は、「自分の味方でありたい」っていうのも、部分的でしたけれど、今となると、もう常ですね。特に、何か決断をしなきゃいけない時、何か不安が襲ってきた時とか、ネガティブなもので自分の足が止まりそうな時は、必ずその視点に立つっていうのがもう癖ついてるというか、そうやって生きちゃってるんで。


―もう、それが自分の中心にあるわけですね。


今はそうですね。別の言い方をすれば、他者のことより、自分のことを中心に取り入れるってことなんですけど。何をするにせよ、自己中心というか主体的っていうところでもあるのかもしれないけどね。




自分を知れば知るほど、自分勝手に生きてはいけないとわかる


―人との関わり合いの中で、自分が中心にあることと、自分勝手に振る舞うことって混同されがちですが、どんなふうに考えておられますか?


それはもう明確で、自分の味方につくということは、自分のことを知らなかったら味方にはなれないんですよね。何者かも分かんない者の味方にはなれない。僕は、僕なりに「自分ってこうだ!」っていうのがあるんですよね。そうすると《自分って1人で生きてるんじゃない》ってことに気づくわけです。


自分にはできないことがたくさんある。苦手な部分も、弱い部分も知ってる。そういうふうに自分のことを理解して受け入れていると、自分の独りよがりはできない。自分勝手になんか生きてたら、自分の味方にすらなれないんですよ。


―自分を知れば知るほど、自分勝手に生きていけないとわかる、と。


人と手を繋がないと、自分っていうものが成り立たないってことに気づいてるので。自分勝手してたら、それ、「自分を孤独にして、孤立させてんじゃん!自分の味方になってないじゃん!」って話なんだよ。だから、やっぱり大切な人は大切にしないと生きていけないよね。


―エルさんはさっきおっしゃっていた、自分の弱いところとかダメなところを知っていくのが怖いとか、拒否反応が起こったりしたことはありましたか?


いっぱいあったと思いますね。10代、20代の頃は、自分のことを見たくない。良いところだけは見たいし、弱いところや恥ずかしいところは隠したい。もう、それの繰り返しだと思いますよ。


―どうしたら、自分のことを観れるようになるんでしょう。


そうですね。答えになっているか分からないですけど、自分を観ようとすることをやめりゃ、いいんじゃないかな。逃げたいんだったら、「自分は逃げたいんだ」っていうことを自覚して、ひたすら逃げてりゃいいんじゃない?まるで宿題をやるみたいに「自分に向き合わなきゃいけない!」って考えて観ることじゃないって僕は思っていて、それって逆に不自然じゃない?って思います。


そうじゃなくて、心から自分の味方になってやりたいと思うから、味方になるだけ。大事なことは、幸せな気持ち、自分が幸せであるっていうことを、日常の中で日々感じられることだと思うんですよね。それが何よりも幸せだと思う。それを感じられているんだったら、それを疑うのはおかしいし、人と比べるもんじゃないよね。


自分の人生をもっと幸せにしたいとか、もっと格好よく生きたいとか、そのために必要なこととしてやっていた感じ。それって、ある意味、あきこさんの考え方とも近いと思うんですけど、「それが好き!もっと知りたい!」って自分に思えたんですよね。なんか恋愛の感覚に近いじゃないですか。


―恋する相手を想う気持ちに似てますね。


本当に好きな人がいたときに、「この人のことをとにかく知りたい」「もっと触れたい」そんな感覚と同じだと思う。それを恋人ができたら、まず知りたいと思いましょう!って意識でするのっておかしいじゃん。それ本当は興味ないでしょ!って。




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