インタビューを重ねてきて感じていること。
それは、その人の《本当に言いたいこと》
というのは、すぐに言葉にできないもの
なのだということ。
インタビューの中で問いに対して
言葉を繰り返し発していく中で、
じわりじわりと言葉になっていく。
それは、そのインタビューの中では
言語という形になりきれないかも
しれないし、少しずつ形になるかも
しれない。
インタビューアが無理矢理に
引っ張る、引き出すものではないんだよ。
わたしは目の前の人を無視したくはない。
たまに、引っ張ってほしい人がいるから
それは、引っ張ったら良いと思うけど 笑。
言葉にならない想いがあるということ。
それを、そのまま認めるだけなのだから。
その言葉にならない想いは、
言語以外に表れる。
間であったり、表情や動き、
「なんか」「えーっと」「うーん」
等といった
意味のない言葉にのることもある。
研究では、これらは省かず、そのまま残す。
記事にする時は、最終的に省くものが多い
けれど、全体を観る上でわたしは
大切にしている。
話を《きく》というのは、結果を
コントロールしようとしないことから
始まるし
相手は自分の想像を超える存在で、
自分の外側の世界、つまり未知の世界を
教えてくれる存在なのだという前提に
たたなければ、《きく》ことはできない。
自分の世界に当てはめようとするから、
「理解ができない」とか
「アイツはなんでやつだ!」とか
自分の過去の古傷に触り
反応を起こすことを認められないのだ。
それすらも、ああ、自分の【ここ】が
痛むんだなと気づけたら
儲けもんじゃないか。
理解なんでできない。
だから、知りたいし、分かろうとする。
未知をみたいから、《きく》んだよ
って思う。
わたしが今まで、本当に《きいてもらった》
と感じる経験がいくつかある。
言い換えれば、本当にきいてもらう
という体験は一握りなんだよな。
きいてもらっただけなのに?
と思うかも知れないけれど、
それは奥の方から満たされた体験で
わたしを丸ごと認められたような
「大切にされた」と感じるものだった。
とは言いつつも
わたしも全く《きく》ことが
できていなかった。自分の世界に
あてはめてしかきけず
きく前に話していたな、と思う。
未熟で自分を棚にあげすぎていたから。
もちろん、普段から《きく》を
しているのではなく
インタビューの時にそのスイッチを押して
もう一人のわたしを稼働させている
ような感じだ。
《きく》だけに価値はないようなことを
聞くこともあるのだけれど
それは《本当にきいてもらった》と
感じたことがないのだろう。
今もこれからも、ずっと
《きく》は試行錯誤だ。
記事を出すということは、
ある意味、自分の未熟さも
オープンにしている。
人間どうしのやりとりだから。
そんなわたしでも
他者によって気づきをもらいながら
体感とともに《きく》ということの手触りを
よりリアルに感じられてきたことは
本当にありがたいことだなあと思う。
この《いただきもの》は
インタビューを受けてくれた方には
もちろん、記事を読んでくれている方
にも還元していくつもりだ。
そして、学生さんたちにも
また伝えられることや
体験してほしいことがでてきたので
「きく」をテーマにした講義を
深め渡していこうと思う。
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