【熊倉千砂都】VOL.① 日本の伝統工芸「江戸切子」を伝承する3代目後継が辿り着いた運命を受け入れ生きる道

文化人類学者の磯野真穂さん主催の「聞く力を伸ばす」という講座を通して知り合った彼女。わたしたちは、全く違う環境で人生を歩んできたが、その違いに互いが関心をもち、おもしろがることで意気投合したのは時間の問題だった。 


彼女は江戸切子という伝統工芸を家業とする環境で育った。伝統がもつ、格式高く固いイメージからは想像できない程、親しみやすさと温かさに溢れた彼女。一方で、革新的な行動によって、「日本橋に店舗をだす」という夢を実現し、閉じていた日本の伝統工芸を世界に発信し続けている。とにかく振り幅が大きいことに驚かされる。 


その情熱は世界に届き、華硝の江戸切子は、日本のこだわり抜かれた伝統工芸ブランドとして各国から高い評価を得ている。そんな彼女は、日本の伝統文化を受け継ぐ者として、自分の人生をどう捉え生きているのだろうか。


今回は、これまで華硝の商品を中心に語られたインタビューとは異なり、その伝統を守りながらも、自分の枠を外して世界を切り拓く彼女の人間性に光を当てる。その魅力を感じてもらいたい。 


(取材/はぎのあきこ)

東京日本橋にある、江戸切子の店・華硝(はなしょう)


否定されたくないから、周りに家業を知られたくはなかった学生時代


ー江戸切子の老舗の3代目後継のお仕事というのは、どんなお仕事をされているのですか?


「江戸切子」という江戸時代から始まった伝統工芸品をつくる会社をしています。江戸で作ったガラスのカットをして作っていくものです。祖父から始まり、祖父、父、弟が職人で、母が社長をしています。


私は不器用で作れないので、会社の経営やマネジメント、営業で販売をしています。日本橋のお店で販売をしていて、3代目って言っても、職人の弟と一緒に後継としてやっています。



ーお仕事が小さい頃から生活の中にずっとあったような感覚なのでしょうか?


そうですね。祖父の時は下請け業で、大手のガラスメーカーさんに言われたことをやる、いわゆる加工賃業だったんです。でも、父と母が「自分たちのブランドを持とう」と、下請けをやめて独立をしました。だから、あまり祖父の時って、家業にそんなにピンときてなくて。 



ーなるほど。ある意味、独特な家庭環境で育ってこられたように感じますが、子ども時代に周りと「何か違う」と思うことは多かったですか?


そもそも、中学でも高校でも自分の家の話をほとんどしたことがないし、知られたくないと思っていました。自分なりに「違う」という認識が先にあったんだと思います。家業を継ぐ気もなくて、興味もなかったので、「関係ないし」と思っていて。


だから、テレビに出た時に、そこで初めてみんなが知って、LINEやメールで「テレビ見たよ!」みたいな連絡が久しぶりに来ました(笑)。 



ー「知られたくない」と思っていたのは、家業のことを最初あまりよく思っていなかった面もあります? 


そうですね。トラウマのような体験があります。小学4年生の時に、うちの母が知り合いの方に「職人さんの家の子だから、受験なんてしても分かんないわよ。」と言われていたんです。母は「腹立つわ」って悔しがっていました。


わたしはそれを見て、職人って差別用語なんだと思ったんですよね。それで、自分の家のことを言わなくなったんです。そんな風に言われたくない。うちの家の製造業は差別されてしまう。会社員の方が偉いんだ。そんな風に、ずっとその出来事が記憶に残っていました。


何か、自分が馬鹿にされたように、否定されたように思えたんです。 それで、《学歴つけないと社会では馬鹿にされるんだ》と思うようになりました。



ーそれだけ家業は大事なものだったんですよね。だから、本当に学歴をつけた。

うんうん。今は全然言われないけれど、「私が大学まで行けばそういうことを親も言われないのかもしれない」って、そんな気持ちはありましたね。 



大変さを見てきているからこそ、家業を継ぐのは嫌だった


ーやっぱり根底には「何くそ」があった、と。


うん。ありましたね。ただ、そうは言いつつも、私はもともと、家業に入りたくはなかったんです。弟も入る気はなくて。やっぱり身近で見てると、大変なところばかり目についていました。


例えば、今のように宅急便もそれほど流通していなかったので、店舗に直接届けに行ったり、二人で夜中まで包装していたりしている姿を見て、つくづく大変だなって。 それに、家族で仕事をするとなると、喧嘩も絶えずなくて。


食事中も仕事の話で揉めることも多々ありました。そんな風にはなりたくないと思っていましたが、結局、今も家族でご飯を食べていて揉めることもありますけどね。当時、父と母が独立した時期が、弟が中学生、私は高校生の時でした。


その頃は、「自分のことを聞いてもらいたいのに」、「悩んでいるのを知ってもらいたいのに」って。だから、家業を継ぐことは本当に嫌で、 私は社会科の先生になりたかったんです。 



 ー多感な時期ですからね。でも、社会の先生ってところがまた、今につながりますね。 


そう、そうそう!思ったんですよ。日本の文化を目当たりにしてるのに、世界史を選ぶことはなかったですし、専攻していたのはやっぱり日本史でした。今でもその日本史の知識があるからこそ、お仕事でお話ができていて役立っています。



ーうんうん。無駄なことはひとつもなかった、と。ご両親から言われたことで印象的なことはありますか?


うちの母が神社が好きな人で、京都によく連れて行ってもらったり、日本の行事ごとを大事にしていて、一日参りも続けていたり。ご飯の時も神社の事や日本の文化的な話がたくさん出てきました。


父は、逆にそういう話が嫌いで、「アメリカはすごいな」みたいなタイプ。父は無国籍を目指していて、「日本人が作れば絶対どこかに和が入るから、和がなくていいんだよ。」と常々話しています。こんな感じで、両親が全く真逆という中で育ちました。 



ーおもしろい!なんだか、ご両親のイメージから、華硝の江戸切子の作品そのものの雰囲気を感じます。伝統としての形はありながらも独創的でオシャレなんですよね。


ありがとうございます。



一人で何かを考えることが好きだった少女


ーそんな独創的な環境で育った小さな少女はどんなことが好きだったんですか?


読書でしたね。本読むことがすごく好きで、読書量はかなり多くて、子どものときも図書館行くのが大好きでした。お父さんに、大きい本屋さんに日曜日に連れてってもらうことを楽しみにしていたような子どもでした。


 科学博物館や美術館も好きでした。うちの子も同じように好きなので、似ていますね。



ーやっぱり芸術に触れてきたわけですね。


今思い出せば、本当にそうですね。そのときは分からなかったけど、《何かを考えることが好きなんだな》ということが自分でも今分かりました。一人になりたかったのだと思います。 本でも、絵でも、見ている時は、物と自分との関係しかないでしょう。


一人で考えたい時に話しかけられると、止まってしまうじゃないですか。それが多分、嫌だったのだと思います。だからと言って、人が嫌なのではなくて、一人の時間や空間が欲しいという感覚です。 だから、わたしは営業に苦手さを感じるんですよ。


でも、営業が大好きな人より、ちょっと苦手ぐらいの人の方が事象との間に距離ができて、うまくいくとも思っています。苦手だからこそ、反省もするしちょうどいい。



ー考えたい、想像したいんだ。客観的に見る力をおもちですよね。


それは、結構訓練しました。《ちょっと離れたところで見る》ということを。《のめり込むよりは、少し離れたところで見て良い形で接したい》と常々思っています。 苦手だからこそ、結局自分で色々生きていく術として身につけてきたことなんです。


経験して、失敗も多いが故に反省して、他者に指摘されて「ああ、そうか」と気づき、考えての繰り返しをしています。これができるのは、本当に周りの方々に恵まれていて、周りがわたしを排除することなく、そのまま受け入れてくれるからこそだと思っています。



ー他者への信頼の土台があるように感じます。家庭環境でしょうか。


そうですね。確かに、親は全然「継げ」とも言わないし、「何でもやったらいい」というスタンスです。母は心配性なんですけどね。ただ、それも「親だからね」と良い意味で軽く受け止めています。


でも、やっぱり根底では《自分の人生は人に恵まれる》と勝手に思っていますね。ですから、今のわたしがいるのは、その思い込みのおかげかもしれないです。嫌な人はいない、寄せ付けないと思って生きてたんですよ。




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