【熊倉千砂都】VOL.② 日本の伝統工芸「江戸切子」を伝承する3代目後継が辿り着いた運命を受け入れ生きる道


真面目さの否定から、環境を変えれば人は変わると知る


ー人生を振り返ってみて、今の在り方に影響している転換点で、何か他に思い浮かぶことがありますか?


そうですね。わたしは何事においても「上手くやれない」とずっと強く思って生きてきました。それが、大学院に入ってある先生に出会えてから、変わりました。段々と「自分を出しても大丈夫なんだ」と思えるようになったのだと思います。

すごく厳しかったんですよ。厳しさのあまり何度も泣いて、本当に大学院の勉強が大変過ぎて、ここを選んで失敗した!と思う程辛かった。でも、先生が見捨てずに最後まで見てくれたんですよね。


そこまで徹底して、自分に力を注いでくれる人がいるんだと知りました。そうしたら、まだまだいろいろな世界に行けば、そんな素敵な人に出会えるかもしれない。自分もそんな存在にならなきゃ!と。どこかで《恩を返せるように》と思ったことが始まりです。


そこで、《私は環境にすごく恵まれている》と心底思いました。人との関係で痛い目にあうことも、もちろんありますが、それでも、お話したような経験に基づく確信があるから、そういう人ばかりじゃないと思えるんです。



ー人との出会いって、何にも変えられないですね。


本当に。でも、大学まではそうは思えませんでした。大学で合わないと思い悩んだ経験をしたから《環境によって人は違うんだ》と思えるようにもなりました。環境を変えればいいだけだと思えてからは、自分に合う環境に身を置くようになりました。


合わない環境には行かないようになり、距離を取るという方法を覚えたので、絶対に嫌な人に会うことはないと思っています。



ーご自分に合う環境の学校というのは、どんな環境だったんですか?


考えていることを、お互いに話し合える環境です。高校は、真面目に話をする人が多いことが普通だったのですが、最初の大学の同級生は、わたしが話をすると「真面目だね」と言われてしまい、したい話ができませんでした。真面目を否定されていたんです。



ー分かるなあ。真面目という言葉。


そう。真面目と言われて、それを私はすごく悪い言葉に感じていました。相手は褒めて言ってくれていても、全然喜べないところがありました。とても受け取りにくい言葉だと思います。



《自分にしかできない仕事》として日本文化を伝える


ー継ぐ気はなかった気もちが、何らかのきっかけで変化が起こったわけですか。


気持ちに変化というよりも、自然にそうなりました。当時の就職活動は、学校の先生が余っている時代と言われていて、なかなか正規の職員にはなれませんでした。だから、ずっと非常勤で、30歳近くになっても変わらず。


そんな時、親から「そろそろ、うちも忙しいから店を手伝って」と言われ、お手伝いで日曜日だけ経理をやり始めました。それからは、とにかく毎日、やることがたくさんありました。進めば後戻りできないという感じの感覚。


その中で、最初は来る仕事を受けるだけでしたが、段々と《自分にしかできない仕事って本当にあるな》と思えるようになりました。 時代の変化もあり、「職人はすごい技術を持った人」という製造業に対する価値観が移り変わってきたことで、わたしのトラウマへのポジティブな影響もあるかもしれないですね。


家業を続けるうちに、江戸切子だけ、うちの会社だけ良ければいいという考え方ではなく、《日本の文化としてどう伝えていくか》を考えるようになりました。《日本の伝統工芸を好きになってくれる人がいるなら、伝えたい》とそんな想いが段々と大きくなっていきました。


それこそ、勝手に日本の文化を背負うような気持ちになってからは、家業にあまり抵抗がなくなりましたね。辞めたいもなく、やらないとか、やるとかではなく、もう《やっている》という当たり前の感覚。自然にそうなりました。



ー成り行きだったけれど、自分にしかできない仕事を見つけた、と。


はい。両親の時の会社って、どちらかというと内に閉じていたんですね。それが、わたしが会社に入ることで、積極的に外に出ることが増えました。例えば、北海道洞爺湖サミットの時に贈呈品として出させていただいたり、海外の展示会で日本の芸術品としてご紹介いただける機会ができたり。


私以外は、割と「外交はいいよ」というタイプなので、どうしてもお仕事が受け身になります。でも、わたしは逆に、やればやるほど《もっと世界が見たい、伝えたい》と思うようになっていきました。店舗も、もともとは東京の江東区亀戸に1店舗しかありませんでした。


だから、「江戸切子の発祥の地の日本橋で2号店を出そう」ということが自分の夢になり、7年前に日本橋にお店を出すことができました。そこまで頑張ろうと思えたことが、わたしを大きく動かしていたと思います。



家業を受け継ぐ運命を受け入れる


ー目標、夢をもつことで自分のお仕事として頑張ってこられたんですね。


はい。そうなんです。自分が家業にまだ抵抗があった頃に、イギリスにお仕事で行ったことがありました。そこで、現地の方が職人や家族経営に対して、リスペクトしてくださったんです。


そこで、わたしが当時抱いていた家業への想いをお話したら、「あなたはその家に生まれた運命なのに、それにどうして逆らおうとするの?」と言われて。雷のような衝撃を受けました。家業のことを「あなたがやらなきゃいけない使命」とか「運命」という言葉で表現されたことは初めてでした。


それを聞いて、「そういうものなのかもしれない」と初めて思えたんです。 一緒にイギリスに行った弟も、その時、わたしと同じように就職が決まらなかった経緯があったことを話すと、「就職が決まらないのもあなたの運命だよね」と言われて。


「職人さんなんて、教えてもらいたくても、教えてもらえない世界にあなたはいるのだから、それをenjoyした方がいいよ。」と言われていました。



ー運命ですか。まさに。そのイギリスでの出来事はその後への影響が大きかったのですね。


はい。それまでの価値観を変えるきっかけになるような大きな出来事でした。人生には、いつも流れがあるものだと思っています。家業に31歳で入って、イギリスに行ったのは、その後すぐの頃で、「いや、そうは言われても」とその当時はまだ葛藤があったんですよ。


でも、その後、他の工芸を継承する方との交流も増えていき、家業や家族経営について学ばせていただく機会が増えました。その方たちの地元にも伺い、できない経験をたくさんさせていただいて、世界が広がりました。

その過程で、《日本の文化を継承することが自分の運命だ》と受け入れるようになっていったのだと思います。それに、この経験を《社会に還元したい》と思っていて、小さいことかもしれないけれど、自分にできることはあると思えるようになりました。 



学問で日本橋に恩を返したい


ー社会への還元。今、何か見えてるものがあるのでしょうか?


はい。日本橋の老舗の方たちは、常に《人のために》を自然にされているんですね。そのコミュニティを維持するために、私にできることは何かと考えて、学問で日本橋に還元しようと思い、今その日本橋の研究をしています。 


以前、教育学で大学院を出ていますが、今は文化人類学の分野で大学院に入学して研究をしています。その研究成果を発表することで、日本橋に貢献したいと考えています。 まずは、老舗の実態をお伝えすること。


日本橋の開発で大きな建物が建ったり、ショッピングモールができたりして、街の景観が変わってきていて、得るものもありますが、逆に失われるものも多くなってきました。これこそが、老舗の方々がすごく悩まれるところなんです。この日本橋の街全体を日本に残していきたい。 


だから、世界遺産の登録を目指しています。わたしはコミュニティの一員であり、地域のためにできることとして、学問の分野から協力できればと思っています。地域の方々にすごくお世話になっていて、こんなに人に親切になれるんだというぐらい感謝していますから。


やっぱり、少しでも恩を返したいし、未来の日本のためにも、何かできればという想いがあります。



ー日本橋の方々との印象的なエピソードを教えてほしいです。


たくさんあります。以前、雪が降って積もった日があって、お店のオープンからすぐだったと思いますが、「早めに行って雪かきしなきゃ」と思ってお店に急いで行くと、すでにお店の前が綺麗に雪かきされていたんです。


地域の方々が全部やってくれていました。うちの日本橋の店舗には女性しかいないことを気にかけてくれて、「女性がやるのは大変だから」と全部片付けてくれていました。しかも、誰がしてくれたとかは全然教えてくれず「いいよいいよ、お互い様だから。」と。


こんな温かい風景が日常にあって、それが当たり前なので、特別なことをしたという感覚は、ご本人たちには恐らくありません。しかも、わたしよりずっとご年配の方々が助けてくださる。こういう優しさにいつも囲まれていることは、本当にありがたいことです。


TEOLつながり

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