不登校という言葉
「不登校は心の病」
こんな記事をyahooニュースで見つけた。
なんでも、日本初の不登校専門クリニックの
医師だそう。
記事を読んで、珍しくひとつも賛同出来なかった。
不登校とは学校に行かない、行けない
どちらにしろ、学校に登校していない状態の
ことを総称して抽象化した言葉。
これって
子ども一人ひとりの背景をまったく
無視しているんだよなぁ。
わたしの中では当たり前だと思うのだけど
不登校イコール心の病ではないよ。
不登校に悩み、心の病とよばれる病気の
症状がでてくることは考えられる。
(そもそも曖昧だけど)
でも、治療や対処法だとか言う前に
そもそも、なんで病気になるほど
悩む状況になるのか考えない?
どれだけ偏った発言になっているか
専門家と呼ばれる人は
自分の言葉の正しさを放つ前に
その正しさを見つめてみる
必要があるのでは?と思う。
正しさを伝えたいときは、もうそれは
傲慢な権力的な自分しかいない。
それはみんなの内側のどこかにあるはず。
でも、ないって思ってるよね。
気づいたうえでの言葉なのか。
そうでないのか。
不登校の子の心が苦しく
悲鳴をあげているのなら
それは
そんなことを堂々と言う大人がいるから。
かわいそうだとか
甘えだとか
弱いだとか
その子を知りもせず
本質を見ようともせず
不登校、学校にいかないという
言葉や状態だけで
自分の解釈の範囲で
決めつけてしまうから。
弱いって言われたら
弱い人にしてしまうことに気づいていない。
繊細だから仕方ないって
気を遣って言われたら
そうなんだと自分にレッテルを貼る。
社会が「不登校」という言葉で
子どもたちを弱くしている。
「学校には行かない」
それを決めるって、想像以上に勇気がいる。
皆とはちがう道を歩くのだから、
不安がないわけではない。
自分の子どもの頃を思い返してみてほしい。
それができる?
ある意味強い。
自分で決めた後は強いんだよ。
もちろん、迷ったりすることも
あるだろうけれど、
子どもに可能性しか見えない。
実際に周りで学校に行くか行かないか
自分で決めてる子たち、
生き生きしてるから。
親や周りの意識を含め、
決められる環境にあるのかどうか。
フリースクールや通信制、
保健室、習い事、、など
人と触れ合う場をもてているかどうか。
決めるタイミングを急がせていないか。
周りが強いコントロールを
しようとしていないか。
環境の影響は大きい。
もちろん、わたしは
いわゆる地元の学校に行くことも
受験をすることにも
意味があると思っている。
勉強はやってから後からじわじわ
人生に効いてくるものだから。
無意味なことなんて、何もない!
学校に行って活動して
すべてが今のその子をつくっている。
わたしもその道を経験してきた。
すべては自分がその経験をどう捉えるか。
結局はひとまとめに
こう!って言えないはず。
不登校っていう言葉に縛られてないで
目の前の子を、現実を、見たらいい。
何をそんなに問題にすることがある??
子どもが苦しそうならば、
周りが立ち止まって我を見てみたらいい。
嫌な真っ黒な自分が見える
かもしれないけれど
そんなこと言ってる場合じゃない。
生きていれば、親も子も迷ったり
試行錯誤して、
何度も自分に戻ることを繰り返す。
だから、大人は子どもに成長させてもらう。
誰か知らない専門家の言うことを
鵜呑みにするより
目の前の子から教えてもらおう。
不登校だろうが、そうでなかろうが
なにも変わらない。
それでも私たちちは
揺れながら生きているし
それが悪いわけじゃない。
それもまた人間の醍醐味だから。
そんな時は
この本を読んでみてほしい。
子にも親にも。
鳥羽和久さんの
「君は君の人生の主役になれ」
親にとって優しい本ではないかもしれない。
時に痛みを伴う人もいるだろうけれど
でも、鳥羽さんの正直で真っ直ぐな情熱が
伝わり人の気持ちが動く本だと思うから。
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