何かすごいことを成し遂げようとしてきた。
自分にはすごいことができるはずと、可能性は無限にあるとはいえども何か遠くのもの、今の自分にはないものを手に入れようとしていたのだろう。
それが何か分からないけれど素晴らしいもので
あるに違いなくて、自分の中のヒロイズムがむくむくと身をのりだし、挑戦を続ければたどり着くのだと信じていた。
でもね、そうじゃなかった。
恥ずかしいけれど、それも自分。
それを好きでやっていただけ。
自分にとって自分は特別な存在だから、ついつい自意識をフル稼働させて、自分を特別視する。
それはある意味で当たり前の素晴らしい意識でありながら、別視点からは勘違いの原因ともなる。
自分は、この世に生まれ名前のついた人間という生き物にすぎない。
どこにいようが、明日には消えてなくなろうが
私にとっては特別なことであれども世界は何事もなく回り続けていく。
そんなふうに世界を行き来して見回せば、周りのすべてが私と同じように毎日を一生懸命生きていることを、同じなんだと思えてきて嬉しくなる。
自分はどうしたって自分でしかなくて、誰になることもなくて、どこまでいっても一人だ。
だから、とても特別で愛しい。
ただ、それは自分だけにおこっているわけではなく、他者にとってもその自意識があたりまえにあるということなのだ。
他者の気持ちになって考えなさいと教わったけれど、わたしたちは他者にはなれない。
他者のようになってみた自分の気持ち、は知れるのだけれど。
それでも、自分を特別だと思って生きている人々が私以外にたくさんいて、その人たちが混じりあいながら世界が動いているんだ。
そう思うと特別な『何か』をしなくても、ただ自分がやろうと思ったことをやればいい、と
当たり前のことをすごく納得して腹落ちしたのだった。
自分の何となく感じる『いい気がする』ことを
理由なく信じて、自分で選んで決めること。
『だめな感じがする』違和感を拾い、理由なく信じて決めること。たったそれだけなのだ。
毎日を、ああ今日もいい1日だったと過ごす
自分の仕事を楽しんでする。
望むならいつからでも誰でもできる。
たとえ、過去を思いだし泣きたくなるように思いが襲ってきても、誰かの言葉に激しい怒りがこみあがっても『それは自分が感じたくて感じているんだ。』『感じてもいいし、泣いてもいい、おこってもいい。』と自分の選択で行動をしていることが自覚できるなら、人生は自分次第でどのようにでもなると思えるだろう。
自分がどんなことに時間とエネルギーを注ぎ、今を生きたいのか。
それを自分に問い続け、選択し決定する、その淡々としたものの積み重ねを繰り返して生きている。
すべてに正解はない。
けれど、わたしたち一人ひとりの中にぼんやりしたものからはっきりしたものまで正解はあり、その正解を問うていくのは自分、変わり続ける正解に対応していくのも自分だ。
そして、自分主体の人生を送っているならば
過去を振り返ったときに、あのときの選択は今の自分を創るために必要で最高の選択だったのだ、と言えるのだろう。
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