夜と霧

ヴィクトール・E・フランクル
みすず書房 2014年

私が「夜と霧」を読んだのは、大学生の頃だった。

看護師になるには、一般大学と違い、実習といって病院や施設、事業所など看護を実践している現場で見て行って学び、単位を修得する必要がある。

看護学では、いくつか分野別に分けられていて、そのうちのひとつに、精神看護学という精神疾患をもつ方の看護を学ぶ実習がある。当時、その精神看護学実習に行く前の課題図書として指定されていたのが、このフランクルの「夜と霧」だった。

ちょうどその頃、TSUTAYAで、DVDをレンタルして「シンドラーのリスト」を見たばかりだったのを記憶している。
だからなのかは分からないが、フランクルの書き記した、ユダヤ人収容所のリアルで生々しい表現に重たさのような、すっきりしない、モヤモヤとした、なんとも言えない感情を抱き、なかなか読み進められなかったのだ。

結局、わたしは全文を読むことはできずに実習が始まった。それを先生に見抜かれたことを今でもよく覚えている。

"あれ"を読んだだけで、そんなに違うものなのか?!それでも、わたしは読まなかった。
読むことが、億劫で気怠くて仕方なかったのだ。普段から本は好きだけれど、この本は読めば読むほど、気分が落ちていくという初めての体験だった。

そして、それ以降読む機会はなかったが、ある日突然、15年以上も月日がたった頃に、しばしば目にするようになった。
わたしが、ようやく《わたし》を意識しはじめた頃だった。つまり、わたしが《わたし》を知りたくなった頃と言える。

ここからは、「夜と霧」の内容を引用しながらフランクルの世界に入っていこうと思う。

わたしとは一体何者なのか

〜生きるとは
リストが至上であって、人間は被収容者番号をもっているかぎりにおいて意味があり、文字通りただの番号なのだった。
死んでいるか生きているかは問題ではない。「番号」の「命」はどうでもよかった。

番号の背後にあるもの、この命の背後にあるものなど、これっぽっちも重要ではなかった。

ひとりの人間の運命も、来歴も、そして名前すら。
わたしたちがもつ道徳は、社会のルールや規範のようなものだ。そして、国家の強制力をともなう社会規範としてあるのが、法律。

アドルフ・ヒトラーは、1935年9月15日にニュルンベルク法(「帝国市民法」および「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」)の制定を宣言し、当時そのすべてがナチ党員で形成されていたドイツ国会(ライヒスターク)において可決させて、ナチスのイデオロギーを支える人種政策論の多くを具現化し、ドイツにおける体系的なユダヤ人迫害の法的な枠組みが形作られた。※下記参照


こうして、フランクルは、収容所において、人としての権利を根こそぎ剥ぎ取られた。
当たり前にあると思っていたものがなくなり、《わたしとは一体何者なのか》という問いは、鋭いナイフで切り裂き、そのカケラすら感じることができないような究極の状態。想像することは困難だ。

このような環境で、人はどのように生きようとするのだろうか。

感情の消滅や鈍磨
感情の消滅は、魂の自己防衛のためのものだが、フランクルは、それだけでなく肉体的な要因、特に空腹と睡眠不足だによる影響をとりあげている。

これは、苛立ちにもつながっていた。これらは、ふつうの生活でも、引き起こすが、収容所での睡眠不足は、居住棟が想像を絶するほど過密であったことや、これ以上はないほど非衛生だったために発生したシラミにも原因があったと述べている。

また、ニコチンやカフェインが感情の消滅といらだちを和らげてくれたとも。

わたしたちの暮らし、環境がどれほど身体や感情、精神に影響を与えているのかを示してくれている。人は、ストレスに過度に晒されると感覚を麻痺させ、感情を鈍らせ生きていこうとする。わたしたちは、無意識下で自分に守られている。
収容所のような過酷な環境にいなくても、日々生きているだけでストレスは必ずある。皆無にすることは不可能だから。
だからこそ、そのストレスをどう捉えるのか、その意識を変えられるのは自分しかいないのだけれど、人間そんなに強いときばっかりじゃない。

時と場合、それこそ環境によって、逃げれるなら逃げることも必要だ(収容所はこれができないから想像を超える)。
それに、自分がどうすればストレスを緩和できるのかの方法を知っておくことも。
これは、一般的に言われている"これ"が良い!とか、友達が良いと言ってた"あれ"ではなく、自分が心地よくなるとか、緩むとかを感じられるものを見つけてほしい。

わたしは何度も見当違いなことをしては、自分は"これじゃない"を繰り返し、ようやく少しずつ"知ること"を重ねられるようになってきた。それでも、知らないことの方が多いけれど、以前よりは「わたしは〜」と人に伝えることができるようになってきたかなと思う。

例えば、フランクルが収容所において、タバコやカフェインを
市民的な麻薬
と表現していた。現代社会で、体に悪いからタバコはやめましょう!というのは、ひとつの意味あることとして明確に示す方がよいと思っている。

ただ、一方で、程度は人により違うことは前提として、生きづらく苦しい環境にいるときに、それが人が生きることを支えている側面も、知っておく必要がある。
看護学生として、精神病院である人を知ってから、ずっとその考えは変わらない。

ひとつの正しさがすべて通ることは、ないはずだから。

自分の正しさの外側にいる人たちを排除しようとしていないだろうか?


わたしたちには、様々な側面がある。

一見、全くちがう性質の人だと思っていても、自分のどこかに、その人が存在しているはず。

どんな人でも、弱さをもち、汚さをもち、気高さをもち、美しさをもっている。
どこかに隠れているかもしれない。
気配が感じられないかもしれない。

でも、どこかで出会うかもしれない。
出会えたら、どんな自分でも喜びたいな。
それは、必死に生きてきたあかし。

出会えないようにしていても、迎え入れる準備ができたら出会えるはずだ。
それは、あなたに覚悟ができたということだから。


次回に続く
『人間最後の自由は奪えない』

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